わかりもしないで言うな

残響室


子どもの進路に、やたらと口を出す親がいる。

「こうした方がいい」
「こうするべきだ」

本人の性格も、興味も、何に夢中になって、どこで躓いたのかも、
ろくに知らないまま──。

ただ“それっぽい正しさ”だけを携えて、
進むべき道を決めようとする。

かつての私は、そういう親を見るたびに思っていた。

馬鹿じゃないのか? と。


その言葉は、ちょっと強すぎるかもしれない。
でも、それくらいの怒りが湧いていた。

子どもの「わかってほしい」を見ようともせず、
「こうすれば間違いない」と安心したいだけに見えた。

本当にその子の将来を思っているのではなく、
自分の不安を解消したいだけなんじゃないかと。

それは、“導いている”というより、
“押しつけている”に近いものだった。


でも、あるとき、気づいた。
それを怒っていた私自身が、
まったく同じようなことをしていたことに。

ふと、自分の過去を思い出した

あのときの私は、ある人にこう言っていた。

「もっとこうした方がいいよ」
「やっぱり、こうあるべきなんじゃない?」

善意のつもりだった。
助けたかったし、支えたかった。

でも今思えば、私はその人のことを、
本当の意味で見ようとしていなかった。

何に悩み、何を恐れていたのか。
何を大切にしたかったのか。

そこに目を向けることもなく、
「こうあるべき」と決めつけた言葉だけを投げていた。


「わかりもしないで、よくそんなこと言えたな」

今なら、そう思う。
いや、思うだけじゃなく、あのときの自分に
本気で言い返したいくらいだ。

あれは助けたかったんじゃない。
自分の「正しさ」にすがりたかっただけだったんだと思う。


誰かに“こうすべき”と言ったとき、
本当にその人のことを見ていましたか?

何を望み、何に怯え、どこで立ち止まっていたのか。
そういうものを見ようとしていましたか?

それとも、自分が言いたいことを言っただけ、
自分が安心したいだけだったのではないでしょうか?


過去の自分に声をかけるとしたら、私はこう言うと思う。

「ちゃんと見てから、言え」
「わからないなら、わからないままで、黙っていていい」

それは無責任ではなく、
“見ること”を怠ったまま語ることのほうが、
ずっと乱暴だと思うから。


人に何かを言う前に、
その人のことを、ほんの少しでも想像できていたか?

わかっているつもり、ではなくて。
見ようとしていたか。
聴こうとしていたか。

その問いは、
あのときの自分にも、
そして今の自分にも、ずっと置いておきたい。